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レア・ストーリーズ【ポンペ病の患者さんの声】 ヒロキさん(26歳) 日本

ヒロキさんの写真

日本は障害者を受け入れる準備ができていない
僕の夢は、僕のような病気の人や社会的に弱い立場の人に役立つソフトウェアやアプリを作ることです

濃淡ある花々で彩られた大学のキャンパスを、車椅子ですいすいと移動するヒロキさん。ふと止まり、自分を取り巻く世界をじっと眺めます。

彼がこの大学で学んでいるのは、タンパク質の構造です。植物から人間まで、ありとあらゆるものに命を与えるコードが組み込まれた、タンパク質の鎖。この鎖にたった1つ異変が起きるだけで、大きな病を生み出すこともある――ヒロキさんは自らそれを体験しています。彼はポンペ病を患っているのです。
この病は彼の人生におけるあらゆるものに影響を与えましたが、科学への情熱、特にバイオインフォマティクスに情熱をもたらしたのも、ポンぺ病でした。

小さいころから病の兆しが見られたヒロキさん。生まれて1ヶ月のころから、たびたび原因不明の高熱が出るのに原因がわからず、医者を当惑させ、若かった両親は心配を抱えていました。つきっきりで看病していた母親のカズミさんは言います。「次第に筋力が弱くなり、手足も細くなっていったんです」。

ある日、不安ではち切れそうな思いで両親は大阪の病院へ行き、筋肉組織の生検を行ったところ、ポンペ病とわかりました。ヒロキさんはそのとき、1歳でした。
カズミさんは「ポンペ病のことは全く知りませんでしたが、治療法がない病気と聞き、ショックで打ちのめされたことを覚えています。まだインターネットもない時代でしたし、ポンペ病について調べようとしても何もわからなかったんです」。

そして当時の医者ができたことは、「ヒロキの熱を下げ、鎮痛剤で症状を和らげることだけでした」。
ポンペ病は稀な遺伝性疾患で、進行性の筋力低下と呼吸の制御不能を引き起こすことを両親はやがて知ります。そのうち、肝臓や心臓、筋肉の機能を破壊するということも。ようやく歩き始め、覚えたての言葉を口にし始めた息子が、痛みと病気に満ちた人生を歩んでいかなければならないという事実をすぐには受け入れられませんでした。
自由にならない身体であっても、ヒロキさんは好奇心に満ちた輝く目を持ち、恥ずかしがり屋だけれどやんちゃな子に育ちました。
「健やかに育っているように見えたんです」。だから、小学校入学後、朝になると頭痛を訴えたとき、学校に行きたくない口実なのかと両親は考えました。ゆっくりした動きのせいで、笑われたりいじめられたりすることがあったからです。

ところが、医者は彼の訴えを真剣に受けとめました。そうしていくつかの検査の結果、頭痛は睡眠中の呼吸困難が原因であることが判明。呼吸を助け、酸素の量を増やすことができるBiPAP療法をすすめられました。
カズミさんは、プラスチックのマスクと管を口や鼻に取り付け、機械の立てる音を子守唄のように聞きながら目を閉じ、眠りにつくヒロキさんをじっと見守っていたと言います。
「小さな息子が毛布に包まれ、人工呼吸器につながれているのを見るのはつらかったですね。状態が明らかに悪化していることもわかりました」。

ご両親はポンペ病について、どのタイミングでどれだけのことをヒロキさんに説明すれば良いのかわからなかったと言います。
身体的な障害の支援が必要ではありましたが、「無駄に怖がらせたくはなかった。でもヒロキが中学生になったあたりには、もはやポンペ病の進行を隠しておけなくなってしまったんです。助けを借りずに歩くことはできなかったし、階段を上ることもできなくなっていました」。

自らの身体や容姿を気にし始める多感な年頃に、ヒロキさんは車椅子生活を始めます。
「小学生くらいのころは、見た目には僕の身体は周りの子たちと大した違いはなかったんですが、中学に入ってからが大変でした。車椅子を使い出したんです。呼吸機能も低下し始め、脊柱側彎症も出てきて、コルセットによる矯正が必要になった。楽しい時代ではなかったですね」とヒロキさん。けれど、ヒロキさんは変わっていく身体能力に、果敢にも適応していきました。学校でも友だちを作り、熱心に勉強をし、科学への興味を高め、またポンペ病の患者が集まる集会にも出席しました。両親は、次々とチャレンジしていく息子を誇りに思ったと言います。

ヒロキさんが積極的に行動を続けている姿を見て、両親は彼の診断についてもっと詳しく説明する決心をしました。ただ、この先に待ち受けている病状の悪化や、困難についてはほとんど話すことができなかったそうです。前向きな姿勢と反対側にある死の可能性――これはタブーなトピックでした。けれど、いつまでも避けることはできないこともわかっていました。

ポンペ病が治らない病であることをヒロキさんが知った日の涙をカズミさんは覚えています。「ある日、テレビでポンペ病のドキュメンタリー番組をやっていたんです。いつもは患者会がポンペ病を取り上げる番組があるときに連絡をくれるんですが、このときは番組のことを知らず、たまたま見ていたんです。ヒロキは自分がポンペ病だと知っていましたが、詳しくは知らなかったし、命にかかわる病気ということは知りませんでした。ところが番組のなかで、あと余命数ヶ月という患者さんが出てきて・・・。私は凍りついて動けなくなり、ヒロキの顔を見ているしかなかった」。

そのシーンが終わるとヒロキさんは深呼吸をし、適当な言葉を探していました。そして、「もしお医者さんが『余命がどれだけあるか』という話をしたら、教えて欲しい。僕はこの人生でやり残したことがまだたくさんあるんだ」。そうヒロキさんは言いました。

やがてヒロキさんは大学に進学すると決意しました。「彼自身の決断だったんです。まさか大学に行くなんて思ってもいませんでした。とても頑張って勉強したんでしょう」。誇らしげな微笑みとともに、カズミさんは教えてくれました。

ヒロキさんの成績はすばらしく、東京の有名大学にも入れるほどでしたが、東京は車椅子の移動が困難なうえ、実家から遠いという難点がありました。
ヒロキさんと両親、担任の先生との面談の際、通学がラクで、車椅子用のランプやアクセスがある建物の多い地元の大学に行くよう、両親と先生は説得したそうです。

ヒロキさんは東京の大学に行くことを諦めたとき、生まれて初めてポンペ病であることを心の底から恨みました。悲しみと怒りに溢れ、大きな声を出して泣いたヒロキさん。感情をあまり表に出さないわが子のあまりにも激しい姿を母であるカズミさんは初めて見ました。家族から離れ、東京で、ほかの学生のように寮に住むという彼の夢は、不当にも手の届かないものでした。「できないことに直面するたび、僕は患者なんだと感じるんです」。

ところが通い始めてみると、第2志望だったとはいえ、地元の大学は素晴らしい大学であることがわかりました。そしてヒロキさんの大学生活が、予想以上にほかの学生と遜色ないことも実感しています。

ヒロキさんは結束の固い研究グループに属して自身の研究に打ち込み、自由な時間には友達とビデオゲームを楽しんでいます。成績は優秀で、ライフサイエンスやバイオインフォマティクス、コンピュータープログラミングなど幅広い分野に熱意を持って取り組んでいます。
また、体内のタンパク質の不特定構造とその位置に興味を持っており、「ポンペ病やほかの似た疾患におけるタンパク質の役割を理解したいんです」。

ある日、授業に来なかった教授に変わって授業を行ない、学生たちを惹きつけたヒロキさん。その知識の豊かさは教授にも引けを取らないのでしょう。
「大学を卒業したら、システムエンジニアになって人の役に立ちたいですね。日本は障害者を受け入れる準備ができていない。僕のような病気の人や社会的に弱い立場の人に役立つソフトウェアやアプリを作るのが夢です。それなら家でフリーランスとしてできますしね」。

一方で、最近、ヒロキさんの病状は目に見える速さで進行しているのも事実です。「自分1人ではできないことが増えてきました。トイレに行くこと、着替え、自分から遠くにあるものを取ることができない。本当に苛立たしい思いです」

この1年半、ヒロキさんの父親は、ポンペ病患者の理解と生活の質を高めることを目指した患者会を運営してきました。この会は参加者も多く、ヒロキさんもほかの患者さんたちと会うことを楽しみにしていて、両親にとってはこのコミュニティーのつながりが支えでもあります。

「最近は患者会に出るのが苦しくなるときがあるんです。私たちはヒロキがまだ小さいころ患者会に通い始めましたが、そのころ、ヒロキはさほど症状が出ていませんでした。このまま軽度でとどまって欲しいという希がありました。でも、今ではヒロキがほかの患者さんたちよりも悪そうに見えてしまう」とトシフミさん。

ヒロキさんはポンペ病の進行を遅らせるため、体内で作られていない酵素そのものを点滴で入れる治療である酵素補充療法(ERT)を11年間、隔週で受けています。家族は「ポンペ病の治療法が必ず見つかる」と信じていますが、今ではヒロキさんですら「僕が生きているうちには無理かもしれない」と思い始めていると言います。

でも、ヒロキさんの兄ダイキさんは「新しい治療法がもうすぐ見つかるはずだ」と希望を持ち続けています。学生時代大阪に住んでいたころダイキさんの部屋の天井に「ヒロキの病気が治りますように」と書かれた紙が貼ってあったのを見たとき、カズミさんは「温かく深い兄弟愛を感じ涙が抑えられませんでした。口には出しませんが願いごとを書いた紙を貼って、いつも気にかけているんです」。

ヒロキさんは「青年期に入るにつれ、思春期のころのように両親から離れようと悪戦苦闘することはなくなりました。今では両親に深い感謝の念を持っていますし、母にたいしては、ただただ感謝ですね」と静かに語ります。

太陽が沈み始め、横から差し込む夕日が花や木を照らします。するといつものようにヒロキさんは夜に向けて準備を始め、本を広げて両親と夕食をとり、 その後、勉強に没頭するのでした。 たとえ病気がどんなハードルになろうとも、ヒロキさんの夢はどこまでも果てしなく広がっていくのです。

※記載の年齢はすべて取材時のものです。
レア ストーリーズは、Amicus Therapeutics, Inc.が作成したRare Storiesを翻訳したものです。
https://www.amicusrx.com/advocacy/rare-stories/

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2020年12月作成